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「天気の子」感想とちょっとした考察 ※ネタバレあり

新海誠監督の新作、「天気の子」を見終えた勢いでひとつ記事を書き、そのまま上映後すぐ映画館の近くにある書店で買った小説版「天気の子」を読了し、少し冷静になったところで猛烈にこの作品について語りたくなりました。もう、二回目観る前に書いちゃお!

 

なので何度か気づいたこと、感じたことからネタバレありで考察とか感想とか書いていこうと思います。

もうすでに本作品を鑑賞した方に、ふーんこういう解釈もあるのね、と見ていただけたらと思います

 

ネタバレ満載なのでこれから劇場に行こうと思っている方、観に行こうか迷っている方は絶対に見てはいけません!

 

 

目次

 

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「サユリを救うのか、世界を救うのかだ」

天気の子のストーリーは、設定は全く違うものの根幹の部分は監督の過去作品で言うならば「雲のむこう、約束の場所」と似ています。

雲のむこう、約束の場所」では、サユリを目覚めさせると世界は並行世界に書き換わってしまうため、世界をとるのかサユリをとるのかという選択を迫られました。

結局「雲のむこう~」では多少の犠牲はあったもののサユリも救え、世界も滅びることはありませんでしたが、本作では主人公の帆高は最終的に天気の均衡を取り戻すのではなく、世界なんて狂ってても良い、と陽菜をとる選択をし、結果として雨は降り続け東京は水没しました。

 

王道の物語であれば狂った均衡は修正されて終わるでしょう。もし狂った均衡の修正と代償に大切なものが失われるなら両方を失わない方法を模索するはずです。

魔王によって世界が闇に飲まれるなら魔王を倒して世界を救う、実は魔王は過去からタイムスリップしてきた恋人の父で、倒すと恋人の存在が消えてしまうものの何だかんだ上手くいって世界も恋人も救われる。

今作のような物語であればそういった結末こそが王道でしょう。

 

天気の子はそういった王道が王道として好まれるゆえん、例えば観たときの爽快感みたいなものを描きませんでした。

今作では主人公たちは世界からすれば非合理的で正しくない選択をしました。「君の名は。」と同じく1人の女の子を救う、という構図ではありますが、前作では女の子を救うことが町民全員を救うこととほぼ同義であったのに対し、今作は一人を救うことと皆の幸せは対立関係にあったわけです。そしてその二つを両立する術を彼らは知らず、ご都合主義な奇跡も起きない世界でした。

だからこそ陽菜を選べば天気の均衡は狂ったままだと明確に理解しながらも陽菜が生きている世界を選ぶという帆高のあまりにもまっすぐな気持ち尊いと感じました。

 

 

誰もが自分の気持ちにまっすぐに従ったクライマックス

 

陽菜は「お天気ビジネス」を通じて、晴れることで多くの人を笑顔にできることに喜びを感じ、それこそが自分の役目なのだと感じるようになります。その中でこの狂った天気の均衡を修正するにはその代償として自分が人柱にならなければならないことを知り、決めきれず帆高に「この雨が止んでほしいって思う?」と尋ねてしまいます。帆高はほとんど反射的にそれを肯定し、彼女は絶望や諦めとともに人柱になってしまいました。

帆高は陽菜が最も言ってほしかったであろう言葉を、彼女にもう一度会って伝えたい、彼女が自分のために願ってほしいと警察署から走り出します。

ここからクライマックスまで、登場人物の気持ちがぶつかり合う怒涛の展開です。

 

まず夏美。彼女は陽菜に天気の巫女は人柱だということを伝えてしまいました。その罪悪感からか彼女は帆高が陽菜を救うために走っていることを知るや否や帆高に言います。「乗って!」

このシーンが本作で一番良かったと思います。

 

次に須賀。劇中では断片的にしか語られない須賀の過去。自分は常識的で現実が見えている大人なんでね、というような態度で帆高を追い出し、廃ビルでも彼を引き留める行動をとる須賀ですが、最後の最後、どうしてもあの人に会いたいんだと叫ぶ帆高を助けてしまいます。娘なのか亡き妻なのか、どうしても会いたい人、一緒にいたい人の顔がその時彼の脳裏をよぎったのでしょうか。

 

それから凪。冷静というか子供らしくない態度を崩さなかった彼が、唯一の家族である姉のために顔をくしゃくしゃにして叫びました。

 

ついでに高井刑事。リーゼントの方ですね。(なんであんなゴキゲンなキャラデザになったんだろう…)言葉遣いも荒く、悪役っぽさすら漂う彼ですが、廃ビルのシーンで「撃たせないでくれよ」とつぶやいたことで彼は最初から最後までしっかり自分の信念に基づいて行動していたのだ、と印象が一変しました。もし言葉遣い通りの人間ならあのシーンでそういうことは言わないと思うのです。

 

そして帆高と陽菜。雲の上で帆高は、ホテルで伝えなければならなかったことを伝え、陽菜は一番言ってほしいことを、一番言ってほしかった人に言ってもらえたことで自分のために願うことができました。

 

じっれたさの表現なのか、帆高が線路を走るシーンに疾走感が無く、もう少し短くてもいいんじゃないか、描き方を工夫すれば良かったんじゃないかと思わなくもないですが、全体的に人物描写がとても良かったです。

 

人物描写といえば君の名は。は人物描写が比較的瀧と三葉に集中してなされているのに対し、今作では夏美や須賀もかなり丁寧に描かれている印象を受けました。さらに凪という弟の存在もかなり大きく、そういう意味で今作は君の名は。みたいな爽やか時々不穏の泣けるボーイミーツガールを期待して観に来た人が若干肩透かしを食らうんじゃないかなと思いました。

 

ラストシーンでの再会

 

クライマックス→数年後(再会)という構成が新海誠、とても多いですね(小説版を含めると)。この構成は小説版の言の葉の庭からはっきりと見られるので気に入っているのでしょうか。(劇場版では「会いに行こう」で終わりですが)

それとは別に今作は「君の名は。」の影響が色濃く見られました。モノローグの入れ方とか音楽の挿入のタイミングとか特にそれを強く感じ、それ自体は物語に良いテンポ感とか展開を与える演出で、実際君の名は。を初めて観たときは衝撃を受けたのですが、今作でと何かやると何だか前作と似てる感じだな、という印象になってしまうので少しここは工夫すべきなのではないかと思いました。モノローグを多用して物語のテンポをうまく整えるのは監督の十八番ですからそこは良いと思うのですが…

 

さて、帆高の二度目の上京から始まるラストシーンですが、水没した東京、それでもそれを受け入れ、そこに生き続ける人々、なんだかぐっときました

 

ともあれ本題はそこではなく、「僕たちは大丈夫だ」という帆高の最後のセリフとその感情です。

小説版のあとがきを見る限りこのシーンはRADのよーじろーの楽曲から着想を得て作った、とのことですが、え???

僕はてっきりこのラストを観た時「秒速5センチメートル」の語り直しかなって思ったんだけど…

 

何となく腑に落ちない。

ノローグと挿入歌も相まって決して説明不足ではないんだけれども…

 

互いを強く強く求める男女

 

新海作品で決まって描かれるのは互い(あるいは誰かを)を強く強く求める男女です。恋愛とか、以前記事に書いたような孤独とか喪失とかそういった要素は作品の本質ではなく、誰かを求める感情の源泉となったりその過程にある要素なのかな、と今作を観ていてふと思いました。

 

陽菜のチョーカー

 

公開前、各予報や冒頭映像などを見ているとこのチョーカーは陽菜が初めて廃ビルで祈った時にはつけていなかったけどその後のシーンと思われるところでは必ずつけていることから天気の巫女としての象徴なのかと思っていました。

 

しかし物語の最序盤でこのチョーカーはもともと陽菜の母のものだったことが描写されていたため、天気の巫女の象徴なのだとしたら母の形見だという設定は何となく違和感を感じました。とすればこのチョーカーは何を表すものなのか。

 

終盤、陽菜が空から帰ってきた時のシーン、このチョーカーは外れていました。また、ラストシーン、フードを外した陽菜の首にこのチョーカーはありませんでした。(たぶんね)

 

だとすると母の形見であるチョーカーは、母を忘れられない陽菜は空の上(彼岸)で母に会うことで未練を断ち切った、みたいな母親に寄った表現のためのものなのでしょうか。それはあまりに微妙な解釈だなぁ…

 

となるとやはりチョーカーは天気の巫女の象徴で、空から帰るシーンで外れ、その後つけていないのは天気の巫女としての資格を失ったことを表現していて、チョーカーが母の形見であることが示されているのは巫女のなるきっかけが母だったから、という解釈が妥当なところかと思います。

 

あんまりしっくりこないんだけどね

 

好きなシーン

・夏美がいるシーン全般。

というか夏美が好き。キャラはもちろん年齢も一番近いし、何よりえっちだしね

特に夏美がいる好きなシーンは原付でぶっ飛ばすところと、就活の愚痴をこぼした夏美に陽菜が「私は早く大人になりたい」というところ。後者のシーンはマジでぶっ刺さった。

 

・花火大会のシーン

ここは気合い入ってましたね!すごく良かったです。思えば今まで新海監督、花火のシーンて一度も描いたことなかった気がする。好きそうなのに、なんでだろ。

 

・ホテルのシーン

「神様、お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください」

新海誠の作品に多く登場する、登場人物にとっての「完璧な瞬間」を見事に表した表現だと思います。君の名は。のカタワレドキ、言の葉の庭の天気雨のシーン、秒速5センチメートルの桜の木の下のシーンなど、ああ監督はこの「完璧な瞬間」をそう表現したのか、とちょっと胸が熱くなりました

 

さて、今回はこの辺で。また気が向いたらまた何か書くと思います。

 

最後に、正直なところ「天気の子」には個人的にすごく良かったなと思った「君の名は。」や「言の葉の庭」よりも不満点が多かったです。(ちなみに一番好きなのは雲のむこう、約束の場所)というのも作品が「君の名は。」の影響を受けていると強く感じたからです。もちろん作品をより良いものとして完成させるため、という良い意味での影響が多かったでしょうが若干、悪い影響の受け方をしている部分があるような気がしてなりません。

 

いちファンとして、新海監督が僕に刺さる作品を作り続ける限り今後も応援していきます。周りの声を創作の糧にし、どこまでもご自身の世界を表現してくださることを願っています。

 

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