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【すずめの戸締まり】感想と考察 ※ネタバレあり

 

 

(考察)ダイジンが人柱だったとすると

以下の記事で妄想した通り、ダイジンは元々人間だった、しかも幼子だったのではないかと考えています。

mountain999.hatenablog.com

改めて考えると妄想ではなく結構現実的な可能性かなと思っています。

・作中で人間も要石になれることが明示されている

・要石になった草太は祖父に「何十年もかけて神を宿していく」と言われている

・要石のダイジンは草太から「神」と認識されサダイジンも祖父から神のように扱われている

・ダイジンが行く先々で商売が繁盛する(民宿やスナックでの言及)=神様

これらも総括すると「ダイジンは元々人間で何らかの理由で要石になった」説はむしろ自然なように思えてきます。

それが人柱として要石にされたのか自ら望んだことかは判断がつきませんがダイジンの言動や子猫の見た目からもおそらくは幼子であることが想像できるので、自分の意志で要石になったとは考えにくいです。

人柱だとすると本作はその温かさや前向きなメッセージとは裏腹にダイジンに対して相当冷酷です。

草太が要石化する過程で「寒い」と言っていたように、要石の役目は寒く孤独な世界であることは想像に難くありません。

その長い間寒く孤独な世界にいたダイジンを「救った」のはすずめですし、やせ細って訪ねたすずめの家では煮干しをごちそうしてもらった上に「うちの子になる?」と優しくされ、その後(役目を果たさない要石から逃げながら)すずめのために後ろ戸に案内したりしたにもかかわらず東京ですずめに拒絶され、最後にはスズメにとって大事なのは自分が要石にした草太であることを知り「すずめの子になれなかった」と悟って自らの意志で再び寒く孤独な世界に戻ることを望んだというダイジンにひたすら当たりの強いストーリーといえます。

救いがあるとすると、すずめはダイジンが要石になったところで泣いているし、小説版では自分がダイジンに対してしてしまった仕打ちを理解している描写もあるという点でしょうか。

(すずめ視点に立つと猫のことを神と認識していないので「うちの子になる?」あたりはよくある「神に誘われた」ようなもので仕方ないなとは思いつつ)

 

物語の大筋はすずめが過去の喪失を受け入れて解放され成長する物語ですし、伝わってくるメッセージはかつてないほど温かいものであるにも関わらず、その裏でダイジンだけが救われない物語になっている理由がよくわかりません。

 

災いを鎮めるために犠牲になったという役回りから、ダイジンはすずめのように「震災で生き残った人」ではなく「震災で亡くなった人」のことを表現しているのかもしれないですね。

(考察)キャラクターの描かれ方

・まだ未熟な閉じ師の草太

祖父と草太は対照的に描かれているように感じます。

草太は宮崎で地震を防げず、街を歩いているときに悔しそうな顔をしており閉じ師としての責任感は最初から感じられますが(というかそもそも責任感なければ宮崎までわざわざ来たりしないので)、明らかに祖父と違った描かれ方をしている点が要石に対する敬意です。

祖父はサダイジンに対して敬うような言動をしています。一方で草太はダイジンを「要石」と呼び、神と認識しながらおよそ要石に対する敬意を感じられません。要石というものに対する認識が決定的に違うように感じました。おそらく彼は要石が元々人柱である可能性があることを理解していないのでしょう。

一方それを理解する祖父は「要石になることは人の身に余る誉」とまで言い、草太が要石なり災いを抑えていることを是とします。

それが人を犠牲にして安寧を享受する側に立っている人間の、犠牲になった側に対するせめてもの態度というものです。

草太にそれがないのは、要石をただの「そういう役割の神」としてしか理解できていない、未熟さの表れなのだと思います。

・サダイジンとすずめ、環さんの関係

サダイジンがすずめの前に現れたのは、環さんとの喧嘩のシーンです。これには意味があるとダイジン過激派の妻が言っていました。

環さんはかつて、親を失い一人孤独になったすずめに吹雪のあの日、「うちの子になるんだよ」と言い、迎え入れます。そして互いに思うところありながらも環はそれを実行し、親子の関係を続けてきたわけです。

一方、すずめも物語の冒頭で同じことをします。

そう、ダイジンです。

すずめも要石として寒く孤独だったダイジンを解放し、「うちの子になる?」と声をかけています。しかしすずめはそれを実行せず、しかも忘れてすらいました。

サダイジンはそれを伝えるものとして環に半ば憑いているような状態になりすずめに「環さんが言ったんだよ!うちの子になれって!」と言わせ、環に「そんなの覚えてない!」と言わせ、ダイジンに自分は同じことをしていると気づかせようとしたのではないか、と。

だからこそあのタイミングでの登場で、悪役みたいな役割を一瞬だけ担ったのかな。

(考察)常世の謎

作中には常世という概念が出てきます。時空のゆがんだあの世のことで、通常は現世の人間はアクセスできない場所だそうです。

この常世に関する記載で作中で明確に表現されていないことがあります。

常世に刺さる要石と現世に刺さる要石

冒頭でダイジンは間違いなく最初から現世に刺さっています。一方、要石になった草太は間違いなく常世に刺さっているのです。

草太の部屋の古文書では要石は間違いなく「場所」に対して刺さっているものです。常世はおそらく「場所」の概念がなく、それは東京の後ろ戸から見えた草太が東北の後ろ戸からもすぐに見つかったことからもわかります。

また、かつて閉じ師たちが要石をあちこちで刺していたことや、常世のアクセスの難しさを考慮すると現世に刺さっているのが通常であることが判断できます。

では、なぜ草太は現世でミミズに刺されたにも関わらず常世に刺さっていたのでしょうか。

これは妄想の域を出ないですが、以下がありそうな可能性だと考えています。

・ダイジンの呪い:すずめと二人きりになりたかったから、要石の状態だと現世に残っているとそちらに執心してしまう恐れがあったため

・ミミズ本体に直接刺したから:ミミズ本体が常世に退散するときに刺さったまま現世から常世に持ち込まれた

・そういう仕様だから:まだ完全に神を宿していないので安定するまで常世に刺さる仕様になっているとか?

理由になる描写が見つからないので、あまりしっくりこないですが。

・草太には常世がどう見えているのか。

物語はどこまでもすずめ視点で進むので、いつでも常世は12年前のあの日あの場所が再現されています。おそらく見る人によって常世は変わるものだと思われます。小説版でも草太の祖父によってその旨の言及がありました。

しかし、廃遊園地で草太は「君には常世が見えるのか」と言いました。これは草太にも常世が見えるととらえることもできますが、その場合は「君にも」というのが自然なようにも思えるため、彼には見えていない可能性も十分にありそうです。ただそれだとと閉じ師としての仕事ができなさそうな気もするのと、すずめの「凄く眩しい星空と…」という説明で常世だとすぐに断定はできないはずなのでおそらく見えているのでしょう。

とすると、彼には常世がどう見えているのでしょうか。常世は死者の赴く場所だそうですし、すずめには12年前のあの日あの場所が見えていたということは「その人にとって死が最も近かった場所」だったり「その人が一番囚われている過去」だったりするのかもしれないので、彼にも何かそういったものが見えているのでしょうか。

彼が要石になっているときに座っている海岸が彼の常世でしょうか。あそこは星空が見えないのでおそらく常世ではないところなのではないかと思われますが、後ろ戸と酷似した扉が海側に立っていることを考えると、あれが草太の常世なのかもしれないですね。

しかし、だとするとすずめによって要石から戻されたときに草太はすずめと同じ常世を共有しているように描かれています。これはすずめの常世が単純に優先されただけのようにも思えますが、もしかすると草太も12年前、あの日あの場所にいたのかあるいは縁があるのかもしれないです。

例えば全く言及のない、おそらくは閉じ師だったであろう彼の父親はもしかすると12年前、しくじったのかも…など色々妄想は膨らみます。

(考察)すずめの行動原理

すずめの行動が直情的という感想を観ましたが、行動原理はだいたい以下で説明がつきます。

・12年前の経験によるもの

・草太が好きすぎることによるもの

すずめの直情的な行動はすずめ自身が「死ぬのは怖くない」と作中で複数回言及しているのは、母の死によるものでしょう。だから恐れ知らずの行動がとれる。地震という災害の恐ろしさを誰よりもよくわかっているからこそ自分の命よりもそれを防ぐことを優先しようとするわけです。

しかし草太に一目惚れして廃墟まで追いかけたり常世まで追いかけたり自分が要石になる覚悟すらしたりと、元が割とパワー系なのは間違いないですね。

あと、冒頭の「私あなたに会ったことが~」というシーンがまともに回収されないんだけど、あれひょっとして小すずめが常世から現世に戻るシーンですずめの横に立つ草太を目撃しているから???

伏線回収薄味すぎでしょ、というか会話もしてないのによく覚えてたな。

12年後のちに一目惚れするくらいだから「なんか好みの男がいたような気がする!」という記憶がすずめに残っていたということか。愛が重いタイプだな。

(感想)過去作品との類似性

感覚的な話になりますが、秒速5センチメートルや星を追う子供を彷彿とさせるシーンがありました。秒速のタカキの妄想シーンと星を追うのアガルタの聖地の星空と常世の星空は近しいものを感じました。

こういうの結構嬉しいです。

君の名は。ほどは感じないものの、この作品は過去の延長線上にあるんだということが実感できるのがなんかよいですね。

(感想)好きなシーン

一番は東京の空をミミズが覆っていくあたりです。

水面やカラスの目にミミズの影が映っているのみで途中までミミズ本体は風景の中に描写せず、ただ夕方の帰宅ラッシュの東京を美しく描いているシーンが音楽と相まって、息をするのも忘れるような迫力を感じました。

「何事も起きていないかのような、しかし恐ろしいまでに美しい描写」は今から何が起きようとしているかわかっている観客に焦りと恐怖を与え、一方で感動的ですらありますが、それに加えて音楽がめちゃくちゃ良い!陣内一真さんの音楽かと思いきや、あれ作曲はRADなんですよね。昔のRADには全くなかった感じの音楽だったので驚きました。

 

あとは芹澤の出てくるシーン全部。

友達思いで気遣いができるいい男だよお前は。作中で一番いいキャラしてたよ。

ただしっくりこないのが、「結局お前は2万円借りてたの?貸してたの?」というところ。作中最後に「実は貸してたんじゃなくて借りてたんです」と言っていましたが、やっぱり本当に貸してたんじゃないかと思ったり。

なぜなら、すずめのと草太のアパートで出くわしたときにも「貸している」と言っていたからです。借りてるのが本当だとすると、え、そのタイミングで嘘つく必要あった?となるわけで。

でも小説版読むと本当に借りてたみたいなのでその点だけ芹澤の行動原理がよくわからない。とっさに嘘言っちゃう系のやつなのかな。

でもお前はマジでいいやつだよ。さすが新海誠が癖のすべてを詰め込み、最後に神木隆之介をトッピングしたキャラクターだけある。

 

さて、物語の本筋の部分から離れた感想や考察ばかりしてきましたがさすがに長くなってきたので、このあたりで終わろうと思います。

 

この物語はすずめの解放と成長を描く中で、東日本大震災の影響を受けたすべての方に向けて作られた、救いのメッセージが込められた温かい作品だと思います。

天気の子における「大丈夫」と同じようなあいまいで、なんでもないような、当たり前のことで、でもとても大事なことを伝えようとしている作品で、それがきちんと伝わる物語でした。

 

新海誠が次に何を描くのか、今からとても楽しみですが、まずはすずめの戸締まりを観にもう一度劇場へ足を運んでみようと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

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