【すずめの戸締まり】感想と考察 ※ネタバレあり
(考察)ダイジンが人柱だったとすると
以下の記事で妄想した通り、ダイジンは元々人間だった、しかも幼子だったのではないかと考えています。
改めて考えると妄想ではなく結構現実的な可能性かなと思っています。
・作中で人間も要石になれることが明示されている
・要石になった草太は祖父に「何十年もかけて神を宿していく」と言われている
・要石のダイジンは草太から「神」と認識されサダイジンも祖父から神のように扱われている
・ダイジンが行く先々で商売が繁盛する(民宿やスナックでの言及)=神様
これらも総括すると「ダイジンは元々人間で何らかの理由で要石になった」説はむしろ自然なように思えてきます。
それが人柱として要石にされたのか自ら望んだことかは判断がつきませんがダイジンの言動や子猫の見た目からもおそらくは幼子であることが想像できるので、自分の意志で要石になったとは考えにくいです。
人柱だとすると本作はその温かさや前向きなメッセージとは裏腹にダイジンに対して相当冷酷です。
草太が要石化する過程で「寒い」と言っていたように、要石の役目は寒く孤独な世界であることは想像に難くありません。
その長い間寒く孤独な世界にいたダイジンを「救った」のはすずめですし、やせ細って訪ねたすずめの家では煮干しをごちそうしてもらった上に「うちの子になる?」と優しくされ、その後(役目を果たさない要石から逃げながら)すずめのために後ろ戸に案内したりしたにもかかわらず東京ですずめに拒絶され、最後にはスズメにとって大事なのは自分が要石にした草太であることを知り「すずめの子になれなかった」と悟って自らの意志で再び寒く孤独な世界に戻ることを望んだというダイジンにひたすら当たりの強いストーリーといえます。
救いがあるとすると、すずめはダイジンが要石になったところで泣いているし、小説版では自分がダイジンに対してしてしまった仕打ちを理解している描写もあるという点でしょうか。
(すずめ視点に立つと猫のことを神と認識していないので「うちの子になる?」あたりはよくある「神に誘われた」ようなもので仕方ないなとは思いつつ)
物語の大筋はすずめが過去の喪失を受け入れて解放され成長する物語ですし、伝わってくるメッセージはかつてないほど温かいものであるにも関わらず、その裏でダイジンだけが救われない物語になっている理由がよくわかりません。
災いを鎮めるために犠牲になったという役回りから、ダイジンはすずめのように「震災で生き残った人」ではなく「震災で亡くなった人」のことを表現しているのかもしれないですね。
(考察)キャラクターの描かれ方
・まだ未熟な閉じ師の草太
祖父と草太は対照的に描かれているように感じます。
草太は宮崎で地震を防げず、街を歩いているときに悔しそうな顔をしており閉じ師としての責任感は最初から感じられますが(というかそもそも責任感なければ宮崎までわざわざ来たりしないので)、明らかに祖父と違った描かれ方をしている点が要石に対する敬意です。
祖父はサダイジンに対して敬うような言動をしています。一方で草太はダイジンを「要石」と呼び、神と認識しながらおよそ要石に対する敬意を感じられません。要石というものに対する認識が決定的に違うように感じました。おそらく彼は要石が元々人柱である可能性があることを理解していないのでしょう。
一方それを理解する祖父は「要石になることは人の身に余る誉」とまで言い、草太が要石なり災いを抑えていることを是とします。
それが人を犠牲にして安寧を享受する側に立っている人間の、犠牲になった側に対するせめてもの態度というものです。
草太にそれがないのは、要石をただの「そういう役割の神」としてしか理解できていない、未熟さの表れなのだと思います。
・サダイジンとすずめ、環さんの関係
サダイジンがすずめの前に現れたのは、環さんとの喧嘩のシーンです。これには意味があるとダイジン過激派の妻が言っていました。
環さんはかつて、親を失い一人孤独になったすずめに吹雪のあの日、「うちの子になるんだよ」と言い、迎え入れます。そして互いに思うところありながらも環はそれを実行し、親子の関係を続けてきたわけです。
一方、すずめも物語の冒頭で同じことをします。
そう、ダイジンです。
すずめも要石として寒く孤独だったダイジンを解放し、「うちの子になる?」と声をかけています。しかしすずめはそれを実行せず、しかも忘れてすらいました。
サダイジンはそれを伝えるものとして環に半ば憑いているような状態になりすずめに「環さんが言ったんだよ!うちの子になれって!」と言わせ、環に「そんなの覚えてない!」と言わせ、ダイジンに自分は同じことをしていると気づかせようとしたのではないか、と。
だからこそあのタイミングでの登場で、悪役みたいな役割を一瞬だけ担ったのかな。
(考察)常世の謎
作中には常世という概念が出てきます。時空のゆがんだあの世のことで、通常は現世の人間はアクセスできない場所だそうです。
この常世に関する記載で作中で明確に表現されていないことがあります。
・常世に刺さる要石と現世に刺さる要石
冒頭でダイジンは間違いなく最初から現世に刺さっています。一方、要石になった草太は間違いなく常世に刺さっているのです。
草太の部屋の古文書では要石は間違いなく「場所」に対して刺さっているものです。常世はおそらく「場所」の概念がなく、それは東京の後ろ戸から見えた草太が東北の後ろ戸からもすぐに見つかったことからもわかります。
また、かつて閉じ師たちが要石をあちこちで刺していたことや、常世のアクセスの難しさを考慮すると現世に刺さっているのが通常であることが判断できます。
では、なぜ草太は現世でミミズに刺されたにも関わらず常世に刺さっていたのでしょうか。
これは妄想の域を出ないですが、以下がありそうな可能性だと考えています。
・ダイジンの呪い:すずめと二人きりになりたかったから、要石の状態だと現世に残っているとそちらに執心してしまう恐れがあったため
・ミミズ本体に直接刺したから:ミミズ本体が常世に退散するときに刺さったまま現世から常世に持ち込まれた
・そういう仕様だから:まだ完全に神を宿していないので安定するまで常世に刺さる仕様になっているとか?
理由になる描写が見つからないので、あまりしっくりこないですが。
・草太には常世がどう見えているのか。
物語はどこまでもすずめ視点で進むので、いつでも常世は12年前のあの日あの場所が再現されています。おそらく見る人によって常世は変わるものだと思われます。小説版でも草太の祖父によってその旨の言及がありました。
しかし、廃遊園地で草太は「君には常世が見えるのか」と言いました。これは草太にも常世が見えるととらえることもできますが、その場合は「君にも」というのが自然なようにも思えるため、彼には見えていない可能性も十分にありそうです。ただそれだとと閉じ師としての仕事ができなさそうな気もするのと、すずめの「凄く眩しい星空と…」という説明で常世だとすぐに断定はできないはずなのでおそらく見えているのでしょう。
とすると、彼には常世がどう見えているのでしょうか。常世は死者の赴く場所だそうですし、すずめには12年前のあの日あの場所が見えていたということは「その人にとって死が最も近かった場所」だったり「その人が一番囚われている過去」だったりするのかもしれないので、彼にも何かそういったものが見えているのでしょうか。
彼が要石になっているときに座っている海岸が彼の常世でしょうか。あそこは星空が見えないのでおそらく常世ではないところなのではないかと思われますが、後ろ戸と酷似した扉が海側に立っていることを考えると、あれが草太の常世なのかもしれないですね。
しかし、だとするとすずめによって要石から戻されたときに草太はすずめと同じ常世を共有しているように描かれています。これはすずめの常世が単純に優先されただけのようにも思えますが、もしかすると草太も12年前、あの日あの場所にいたのかあるいは縁があるのかもしれないです。
例えば全く言及のない、おそらくは閉じ師だったであろう彼の父親はもしかすると12年前、しくじったのかも…など色々妄想は膨らみます。
(考察)すずめの行動原理
すずめの行動が直情的という感想を観ましたが、行動原理はだいたい以下で説明がつきます。
・12年前の経験によるもの
・草太が好きすぎることによるもの
すずめの直情的な行動はすずめ自身が「死ぬのは怖くない」と作中で複数回言及しているのは、母の死によるものでしょう。だから恐れ知らずの行動がとれる。地震という災害の恐ろしさを誰よりもよくわかっているからこそ自分の命よりもそれを防ぐことを優先しようとするわけです。
しかし草太に一目惚れして廃墟まで追いかけたり常世まで追いかけたり自分が要石になる覚悟すらしたりと、元が割とパワー系なのは間違いないですね。
あと、冒頭の「私あなたに会ったことが~」というシーンがまともに回収されないんだけど、あれひょっとして小すずめが常世から現世に戻るシーンですずめの横に立つ草太を目撃しているから???
伏線回収薄味すぎでしょ、というか会話もしてないのによく覚えてたな。
12年後のちに一目惚れするくらいだから「なんか好みの男がいたような気がする!」という記憶がすずめに残っていたということか。愛が重いタイプだな。
(感想)過去作品との類似性
感覚的な話になりますが、秒速5センチメートルや星を追う子供を彷彿とさせるシーンがありました。秒速のタカキの妄想シーンと星を追うのアガルタの聖地の星空と常世の星空は近しいものを感じました。
こういうの結構嬉しいです。
君の名は。ほどは感じないものの、この作品は過去の延長線上にあるんだということが実感できるのがなんかよいですね。
(感想)好きなシーン
一番は東京の空をミミズが覆っていくあたりです。
水面やカラスの目にミミズの影が映っているのみで途中までミミズ本体は風景の中に描写せず、ただ夕方の帰宅ラッシュの東京を美しく描いているシーンが音楽と相まって、息をするのも忘れるような迫力を感じました。
「何事も起きていないかのような、しかし恐ろしいまでに美しい描写」は今から何が起きようとしているかわかっている観客に焦りと恐怖を与え、一方で感動的ですらありますが、それに加えて音楽がめちゃくちゃ良い!陣内一真さんの音楽かと思いきや、あれ作曲はRADなんですよね。昔のRADには全くなかった感じの音楽だったので驚きました。
あとは芹澤の出てくるシーン全部。
友達思いで気遣いができるいい男だよお前は。作中で一番いいキャラしてたよ。
ただしっくりこないのが、「結局お前は2万円借りてたの?貸してたの?」というところ。作中最後に「実は貸してたんじゃなくて借りてたんです」と言っていましたが、やっぱり本当に貸してたんじゃないかと思ったり。
なぜなら、すずめのと草太のアパートで出くわしたときにも「貸している」と言っていたからです。借りてるのが本当だとすると、え、そのタイミングで嘘つく必要あった?となるわけで。
でも小説版読むと本当に借りてたみたいなのでその点だけ芹澤の行動原理がよくわからない。とっさに嘘言っちゃう系のやつなのかな。
でもお前はマジでいいやつだよ。さすが新海誠が癖のすべてを詰め込み、最後に神木隆之介をトッピングしたキャラクターだけある。
さて、物語の本筋の部分から離れた感想や考察ばかりしてきましたがさすがに長くなってきたので、このあたりで終わろうと思います。
この物語はすずめの解放と成長を描く中で、東日本大震災の影響を受けたすべての方に向けて作られた、救いのメッセージが込められた温かい作品だと思います。
天気の子における「大丈夫」と同じようなあいまいで、なんでもないような、当たり前のことで、でもとても大事なことを伝えようとしている作品で、それがきちんと伝わる物語でした。
新海誠が次に何を描くのか、今からとても楽しみですが、まずはすずめの戸締まりを観にもう一度劇場へ足を運んでみようと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
すずめの戸締まりの感想 ダイジンとは何か(後半ネタバレ)
「すずめの戸締まり」観に行ってきたので、感想を書きます。
前半はネタバレなし(どんな雰囲気かくらいは分かっちゃうかも)、後半はネタバレありで書いたので、ネタバレNGの人は途中までは読んで大丈夫です。
初回は何も考えず思いっきり作品を浴びて楽しもうと決めていったので(新海誠作品はどうせ複数回劇場に観に行くだろうし)特に深い考察などはとりあえずせずに素直な感想を書きました。
個人的な感想(ネタバレなし)
全体を通して
今作は「新海誠の集大成」などと公式が煽り文句を入れていたし、まあそれはそれは期待して観に行きました。
結論から言うと、過去作品とはまた毛色が違うものの、新海誠の作家性はきちんと感じることができた作品でした。
彼の描く世界が好きな方はきっと好きな作品だと思います。
過去の作品のやり直しという雰囲気は君の名は。とかよりも薄まり(それはそれでファンとしては激アツなので良かったのですが)、君の名は。のメガヒットにほんの少しだけ引っ張られた感のあった天気の子よりも自由に作品が作られているように感じました。
ぶっちゃけ個人的には君の名は。や雲のむこう、約束の場所のほうが好きではあるのですが、私が今回劇場に行ったのは君の名は。や雲のむこう、約束の場所を観たかったのではなく、新海誠の作る世界を観たかったので、そういう意味ではとても満足でした。
しいて不満をあげるとすると
唯一少しだけ不満をあげるとすると、過去作品と比較すると儚さがなかったことです。
どちらかというとストーリーの大筋は王道で、そういう王道さは天気の子的ではなく君の名は。的でしたが、君の名は。のようにハッピーエンドの皮を被った儚さの滲み出る感じはなく、すっきりと終わる感じが心地よくもあり少し寂しく物足りなくもある…というような感じで。
あとは後半のネタバレ込みのパートに記載しましたが、ダイジンの行動原理がよくわからなかったことと、ラブストーリーとしてそこまで入れ込めなかったことです。
魅力的なキャラクターとその関係性の描写
もちろん、それ以外はおおむね満足で、例えば世界観だけではなく、登場人物も魅力的でした。
良い作品には魅力的な人物が必要ですが、本作でもたくさんの素敵なキャラクターが出てきます。まっすぐで年相応な主人公すずめはもちろん、天気の子の須賀さん、君の名は。のテッシーのような愛すべきキャラクターも登場し、さらにとても重要な人物として登場する叔母の環もとても良いキャラクターとしていました。
さらに本作では、すずめと草太の男女の関係だけではなく、すずめと叔母の環の親子関係も丁寧に描かれており、むしろ今回新海誠はこっちをメインで描きたかったんじゃないかと思えるほどその関係と変化をしっかりと感じることができました。
相変わらず圧倒的な風景描写
もちろん、新海誠の代名詞である叙情的で美しい風景描写は健在どころかいまだ衰えるところを知らず、序盤から終盤まで絶好調。
君の名は。でもそうでしたが植生の描き分けもしっかりしていて、そういう点でも違和感なく楽しめました。
コミカルさもちゃんとある
あとは天気の子の若干の萎えポイントだった、君の名は。からなぜか劣化したコメディ要素は結構自然でニヤニヤしながら見ることができました。
新海誠、言の葉の庭以前はコメディが下手だった(そもそもほぼ描いてないし)のでこの自然さは感動的。
「後ろ戸」という舞台装置とその設定上、この作品はどう作ってもシリアスと切っては切れない関係なわけですから、本作が大衆に向けたエンターテイメント作品として成り立つにはコミカルさが必須なのですが全体を通して良いバランスだったように感じます。
音楽について
最後に音楽ですが、RADWINPSとの3度目のタッグだったので天気の子のように君の名は。に引っ張られすぎた構成になっていたら流石におなか一杯かなと思っていたのですが、構成だけでなくRADの圧もそこまで感じない、自然な仕上がりになっているように感じました。
もう少し主張しても良い感じだけど、主張が強い作品が2つ続いたのでいったんはこれくらいでちょうどよいかもしれないですね。
まとめ(ここまでネタバレなし)
ということで個人的な感想まとめ。
「このテーマを描くぞ」という新海誠の強い覚悟と強い作家性を存分に感じられる良作です。
ぜひ劇場に足を運んで観てみてください。絶対に損はしないと思います。
ただただ鬱映画が観たいと宣う原理主義者はお家に帰って秒速5センチメートルでも見ていてください。(あと秒速は呪縛と解放の物語であって鬱エンドではないから。よっぽど「雲のむこう、約束の場所」のほうが鬱映画だから!)
※以降ネタバレを含みます。
ネタバレありの感想(以降ネタバレあり)
本作は何を描きたかったのか
詳しい考察は2回目を観てからにしようかなと思っていますが、本作をざっくり一文でまとめると「すずめの解放と成長を描くロードムービー」です。
すずめと草太のラブストーリーが主軸かというと決してそうではなく、すずめの過去の喪失からの解放と家族の成長も大きな軸として存在しているので、「すずめと草太の解放と成長を描くロードムービー」ではなく「すずめの解放と成長を描くロードムービー」が一番しっくりくるかなと。
この複数軸によって感じた微妙な不満は後述しますが、何より本作で気になったのは
ダイジンです。
「ダイジン」とは何か。
本作で正直しっくりこなかった点というか、イマイチよくわからなかった点として、「ダイジン」と「サダイジン」とは何だったのか、何がしたかったのか、どうして最後素直に要石に戻ったのかです。
曰く「神」なのだそうで、よくわからない行動原理や幼い言動は「神」の特権ですしそれで片付けてしまっても良いのですが、少しだけ考察してみます。
まず「サダイジン」は草太の祖父と過去なにやらあったような描写がありました。関東大震災の時は祖父はまだ生まれていないでしょうから、それこそ東日本大震災の時に何かあったのか、あるいは東京の地下にいたのですから祖父とサダイジンは過去関東での大地震を未然に防いだことがあるのか、考察のしようもないのでいったんスルーするとして、問題は「ダイジン」です。
本作では民俗学的なよくわからないものが二つ出てきます。
まずは要石。もう一つはミミズです。
ミミズはまさに荒ぶる自然そのものを具現化したものとして描かれており、日本的な「神」を彷彿とさせます。要石に関しては直接的に「神」と言及されていて、実際に石神のような姿ですので神なのでしょう。
ただ一方で、草太も要石になりかけていました。草太は神ではありませんがそれでも要石になることができました。
どうやって要石になったかというと、ダイジンに呪われたからですね。
中盤で草太が気づいたように、ダイジンは草太を椅子に変えた時点で要石の役割を移しています。このことから、要石になるには少なくとも人間の姿のままではだめで、その人の意識ないし魂を別のものに移す必要があることがわかります。
ということは、
じゃあダイジンももとは人間だったのでは・・・?
という可能性が出てきますね。ゾクゾクしてきました!
その前提に立つと、ミミズという荒ぶる神を抑えるための人身御供として要石にされたひとがいたのでは?ダイジンが幼い言動をしていて、すずめに好かれていると勘違いしたり、からかうような言動をしたり、草太に嫉妬したり、最後には自分を犠牲にするような行動をしたりしたのは、生贄にされたのが子供だったからなのでは?閉じ師は後ろ戸を閉じて回ってもミミズを抑えきれないのでそうした生贄を捧げる活動もしていたのでは?だとすると閉じ師の末裔である草太が要石にされたのには因果があったのでは?
ちなみになぜ猫なのかはたぶんそこまで深い意味はないように思います。純粋に新海誠がただ猫が好きなだけで民俗学上の意味とかはあんまりなさそう。マジで新海誠猫好きだからな、飼ってるし。
とまあほとんど妄想の域に至るまで考察してみましたが、本当に妄想レベルの考察なので、それを明示するヒントは見つけられなかったので再度劇場に行って色々考えながら観てみようと思います。
もしかしたらちゃんとダイジンの行動原理を示す描写があって私が見落としているだけかもしれないですし。
ラブストーリーとしてはもう一声
さて、本作への微妙な不満として、すずめと草太がの関係性が、三葉と瀧、帆高と陽菜ほど互いを強く求めあう関係でないように感じて、ややラブストーリーの軸を楽しめなかったことがあります。
これは一つに草太がほとんど椅子だから感情移入しにくいのもあるでしょうが、例えばすずめが要石になった草太を結構あっさりミミズにぶっ刺しちゃうところとか、東京の後ろ戸を結構あっさり閉めちゃうところが影響しているのかもしれないですね。尺やテンポの関係で仕方ないですが、いったん諦めるなら諦めるでもう少し演出の工夫のしようはあったかもと思ってしまいます。
一方で「草太さんのいない世界が私は怖いです!」とすずめが叫ぶシーンは結構ぐっときたのは事実です。
なのでラブストーリーとして少し薄くなったのは本作の主軸がどちらかというとすずめの過去の解放と、家族の成長に寄っているいるからかなと思います。そちらの描写は個人的には大満足で、クライマックスの「すずめの、明日」と「行ってきます」はぐっときますし、すずめと環の自転車の上での仲直りは胸のあたりがぎゅってなりますね。
個人的に好きなキャラクター
キャラとしては芹澤が好き。愛すべきイキリ大学生。最初出てきたときからいいやつ感出てたので好きでしたが途中でアルファロメオ乗って出てきていけすかねぇなと思ったところでまさかのおんぼろ中古車だったことが判明して反動でめっちゃ好きになった。
お前いいやつだな。
あと普通に環さんが好き。人間臭いのとその後のすずめとの関係性も含めて。
そのほかわからなかったこと
あと、新海誠ガチ勢の皆さんに教えていただきたいのですが、今回過去作品の登場人物って作中に出てきましたか?
君の名は。とか天気の子にはそれぞれ過去作品の登場人物が出てきたので一応探していたのですが見つけられず、「ここにいたよ!」とかあればぜひ教えていただけると嬉しいです!
総括
色々不満もありましたがやっぱり私は新海誠の作る作品が好きです。
これからも、色々注目されて不自由も多くあるとおもいますが自由にご自身の作家性を発揮して素敵な先本をたくさん作ってほしいと願っていますし、応援しています。
といったところで今回はここまで。
お付き合いいただきありがとうございました。
次はもう少し考察メインで書こうと思います。
”雲のむこう”から見る”君の名は”【雲のむこう、約束の場所】
皆さん、”君の名は。”、好きですか?
僕は大好きです!!!!
君の名は。は、誰でも楽しめるエンターテインメント作品でありながら新海誠らしいこだわりを感じられる点がとても素晴らしく、初めて新海誠作品を観た人から古参のファンまで満足できる完成度です。
正直君の名は。以前の新海誠作品はコメディ要素が少ないうえ、万人受けするストーリーではありませんでした。
しかし、とにかく美しい(でもただ写実的なだけではない)風景描写と、一貫して同一のテーマを描き続ける作家性が一定数の人の心に引っ掛かり続け、評価されてきたのだと思います。
ところが君の名は。は観る人を選ばない笑いあり、涙ありで(一応)ハッピーエンドの作品でした。
賛否両論、好き嫌いはあれど、誰が観ても楽しめる作品、それが君の名は。です。
でもやっぱり君の名は。は新海誠の過去作品を観たうえで鑑賞するのが一番楽しめると思うんですよ。
当の新海誠も彼の個人サイトでこのように述べています。
追記。最後に、この個人サイトを見てくださるような、昔からの(ディープな)ファンの方々へ。『君の名は。』には、僕の過去作のモチーフもたっぷりと盛りこまれています。もちろん新しい要素も多くありますが、過去作を熱心に観てくださっていた方ほど、連続性や語り直し、アップデートに気づいていただけるはずです。子供から大人まで多くの観客に楽しんでいただける映画を目指していますが、この映画を最も楽しむことができるのは、やはり皆さんです。今作でもぜひ、映画館に足を運んでいただけると嬉しいです。
そんなわけで今回熱く語らせてもらいたいのは、過去作品から見る、君の名は。の個人的激アツポイントです。
とはいえ僕もそこまでディープなファンではなく、そこまで好きではなくてあまり観ていない作品もあるので、僕が一番好きな新海誠監督初めて手掛けた長編アニメーション映画である”雲のむこう、約束の場所”について語っていきます。
目次
見ていた夢を思い出せないという要素
新海誠が描き続ける一貫したテーマは「喪失」だと思います。
喪失のキーとなる要因が距離なのか時間なのか、それとも死なのかは作品によって異なりますが、君の名は。と雲のむこう、約束の場所では夢から醒めることによって消える記憶がそのキーとなっています。
ご存じの通り、君の名は。では瀧と三葉は互いのことを忘れてしまいます。劇中でおばあちゃんが言っていたように、夢から醒めることで夢の中での記憶を失ってしまうわけです。
かつて彼と彼女は互いの中にいて通じ合っていたんだということを忘れてしまい、結局ラストシーンで彼と彼女は再会するわけですが、なぜ互いのことを求め合っていたのかということやカタワレ時に最高潮を迎えた互いの関係性を取り戻すことはできないのです。
さて、一方の雲のむこう、約束の場所では、ヒロインであるサユリはとある理由で眠りから目覚めなくなってしまいます。
サユリは眠り続けている間、夢を見続けているのですが、その夢の中で孤独な彼女は眠りにつくまえに主人公のヒロキとタクヤとした約束を唯一の心の支えにしており、夢の中でサユリはヒロキを強く求めます。
主人公のヒロキは、とあることからサユリは夢の中でずっと自分たちを待っているのだと確信し、かつてサユリと行くことを約束したユニオンの塔へ行くことで彼女を目覚めさせようとします。
ところが、ヒロキはラストシーンでサユリを夢から目覚めさせることができましたが、サユリは目覚めた瞬間、夢の中でどれほどヒロキのことを求め待ち望んでいたのか、自分が抱いていた気持ちを忘れてしまうのです。
サユリは夢から目覚めたはずなのに、大事な気持ちを失ってしまった。夢から醒め、夢の中で抱いた大事な気持ちを忘れてしまうことを描いているのがこの「雲のむこう、約束の場所」という作品で、同じ夢の中の記憶の喪失を再び君の名は。で描いているのです。
ただ、「雲のむこう」は明らかにハッピーエンドではありませんでした。
むしろ何もうまくいかず、だれもかも、何も得られていないのです。
約束の場所も失い、友人や大切な想いを失ってしまったうえに、何より救いがないのは、世界すら失う覚悟でサユリを取り戻したはずのサユリと、ヒロキは離別してしまうということです。(その事実を物語冒頭で描いちゃう監督すごくない?バッドエンド確定演出じゃん)
なぜサユリが去ったのかは物語の中では描かれませんが、夢の中でヒロキのことをどれほど求めていたかを忘れてしまったことは無関係ではないと思います。
一方、君の名は。では、この目覚めからの関係性の喪失という部分を、お互いの記憶の喪失を乗り越え、再スタートを切るという形で描きなおしています。
確かに、瀧と三葉はカタワレドキに最高潮を迎えた関係性を思い出すことや取り戻すことはできないのでしょうが、明るい未来を感じさせるようなラストでした。
このラストについて、新海誠がハッピーエンドを描いたことを受け入れられないファンが「互いのことを忘れてんだから合わなくてヒロキとサユリみたいに別れたかもしれないだろ~~???はいバッドエンド~~~~!!!!」とか解釈するかもしれないところですが、さすがにそれは穿ちすぎでしょう。
「君の名は。」は新海誠が描き続けるテーマである「喪失」をしっかり描きながら、そのテーマと共存の難しいハッピーエンドをみごとに両立させて描いているのが素晴らしいのです。
違う軸にいる二人が一時的に再会する展開
両作品には主人公とヒロインが一時的に再会し、また別れるという展開があります。
両作品ともそれぞれ再会するシーンは印象的です。
ここでニクい演出だと思ったのは「君の名は。」の方がその再会シーンを引き延ばすところです。
「雲のむこう、約束の場所」でヒロキとサユリは、夢(あるいは並行宇宙の分岐点)と現実という異なる軸にいながらも互いの気配を感じ、あの病室で手をのばし、触れ合った瞬間に異なる世界がつながり、一時的な再会を果たします。
ところが「君の名は。」では二人は3年前と3年後という異なる時間軸にいて、一度互いの気配を感じて手を伸ばすもその手はむなしく空を切ります。
印象的な夕陽を背景に描かれるそのシーンは「雲のむこう、約束の場所」をみたことのある人ならば、ピンときて再会をより期待したでしょうが、ところがどっこい、ひと呼吸おいてから一応伏線として張ってあったカタワレ時がやってきて再会できるわけです。
過去作品を知っているからこそ期待を裏切られ、その分カタワレ時でより盛り上げれる展開になっているような気がしますね!そうですよね!!!監督!!????!!?監督??監督!!!???
もちろん、このシーンは過去作品を知らなくても夕陽を背景に手を合わせて再会できるんだろう、と期待させた後にがっかりさせ、その直後に「そうか、カタワレドキの説明はこのシーンへの伏線だったのか」と膝を打って盛り上がれるシーンです。いやあ素晴らしい。
最後に
共通点これだけかよ、と思われるかもしれませんが今回はこれを是非とも書きたかっただけなのでここまで。
ちなみに「雲のむこう、約束の場所」という作品は初見だと本当に何がなんだか分からないはずです。それどころか、何度も見直したところで、そもそもあまりに説明不足な作品であるため分からないところは自己解釈するしかないと思います。
これは意図的にそうした面もあるのでしょうが、やはり監督が思うように描き伝えきれなかった部分もあると言わざるを得ないでしょう。
ただ僕は「雲のむこう、約束の場所」がとても好きですし、たまに見返しては「やっぱ意味不明だしちょっと設定甘いよな、ついでにヒロキの声どうして吉岡秀隆にしたんだ」とか言いつつもこの作品の世界観や独特の雰囲気が大好きです。
ぜひ、興味のある人は観てみてはいかがでしょうか。
ソ連的な国家に占領された北海道に軌道エレベーターみたいな塔が建てられていて、青森に住む二人の中学生がジェット機自作しているところで、気になっていた同級生の女の子と一緒に行こうと約束したけど…みたいな話です。
刺さる人にはぶっ刺さります。中学生くらいの歳で観ちゃったらもう抜けないくらいに。
それではここまで。
もうブログのタイトルを変えようかな。
登山自粛について思うこと
新型コロナウィルスの蔓延に伴う不急不要の外出自粛が続いています。登山界隈も例外ではなく、登山自粛が叫ばれています。
登山自粛の主張は以下の二つに分類されるように思われます。
少なくともネット上で現在みられる意見としては②が主流であると感じます。
①アウトドアでも条件によって感染リスクが高まる状況が発生するという主張
・山小屋で3密が発生し得る(複数人でのテント泊でも同様)し、感染対策がしにくい
・移動の際やコンビニなどの施設の利用でウィルスを拡散してしまう
・混雑した登山道では人と人との十分な距離を維持できない
→登山者同士はもちろん、山小屋関係や交通機関、地元住民への感染のリスクがある
この主張に基づけば、ソロかつ人の少ない山域で、登山口まで自家用車でアクセスし、行きと帰りにどこにも寄らないのであれば登山を自粛する必要はありません。
②登山行動そのものが医療現場や救助隊に不要な負担をかけるリスクがあるという主張
・事故発生時に、コロナで逼迫している医療現場に不要な負担をかけることになる
・遭難者がコロナに感染していた場合、救助活動を行った関係者が隔離されることになり、救助隊の機能不全につながる
→以上の事態が発生すると今後の登山界隈に禍根が残る
同様の考えはマリンスポーツやバイク界隈でも散見されます。
この主張をしている人はさらに二分できます。片方はリスクの低い登山やハイキングなら良いだろうという考えの人たち、もう片方は登山に絶対安全などないのだからすべて自粛すべきという考えの人たち。
②の主張が一気に強くなったのは以下の記事が拡散されてからであるように思います。
で、4月25日にあわやこのカナダと同様の事態が発生しかけました。
そのためより一層強い登山自粛論が声高に叫ばれるようになっています。
そして、この遭難男性はもとい、登山をしている人への攻撃もじわじわ始まっています。
さて、ここであらかじめ僕の意見を述べておきますが、僕は登山自粛に賛成です。(②の主張のすべてに同意見というわけではないですが)3月頭から登山は行っていませんし、今後もコロナが落ち着くまで登山はしません。もともとインドア人間だから僕は苦ではありませんから。
ただ、僕は登山やその他アウトドアをすべて自粛すべきだとは、決して思いません。
各種施設を使用せず、自家用車を利用して、1人で、比較的リスクの低い山域やコースを無理のない状況で歩くのであれば許されると考えています。批判の対象にはなるべきでないと思います。
いえ、そもそも許す許されないの問題なのでしょうか?
法で規制されていないのであればすべての行動は行動する本人のモラルに依存するはずです。コロナ蔓延に伴う現在の状況では、個人の自由な行動が制限されることはやむを得ないでしょう。ですがその行動を制限すべきは法や政府であって決して個人やメディアではないのです。
人が人の行動を、自由を制限するという構造は悪い相互監視の在り方です。それは感情に飲み込まれたリンチへと発展し得る危険性をはらんでいます。
さて、現在散見される登山はすべて自粛、という考え方に則って考えてみましょう。(無論この考え方自体に善いも悪いもなく、問題なのはそれを過剰に人に押し付けようとしている人たちなのですが)
リスクの低い登山ですら自粛すべきなら、少しでも危険の伴う行動はすべて自粛すべきということになります。
では、例えば、自宅待機に限界を迎えた子供を連れて、あらゆる感染対策を講じたうえで出かけるレジャーは、家に籠っている場合と比べて交通事故リスクが上がるから自粛すべきですか?
あるいはストレス解消に近所の穴場な海岸や河原に出かけて水遊びをするのも水難事故のリスクがあるから自粛すべきですか?
そういうことじゃない、それは精神や肉体を健全に保つために必要な行動だ、という反論があるでしょう。しかし、詭弁に聞こえるでしょうがそれはあなたの価値観、あなたの線引きでしかない可能性は捨てきれないのです。
自分の価値観が絶対に正しいと思い込み、それに沿わない他人の行動の裏にどんな事情があるかも想像しない態度というのは非常に危険です。
また、例え他人の行動がどう見ても自分勝手な行動であったとしてもそれが誰かを袋叩きにすることを正当化する理由になどなりはしないのです。
そんな正義などありません。
今回阿弥陀で事故った方にどんな事情があって登山を決行したのかは存じませんが、きっと猛反省しているし、身内や周囲もコロナが収まるまで行かせないでしょう。
それでいいじゃないですか。
今回起きなかった最悪の事態を何としてでも防ごうというのは分かりますが、それが事故った人や登山をしている人を叩くことに繋がるのは行き過ぎなのではないでしょうか。
我々がすべきは、しかし身内や近しい人がリスクの高い登山やアウトドアアクティビティをしようとしていたら事情を訊いて、止めるべきであれば止める程度のことではないでしょうか。
登山自粛を啓発するのも必要なことでしょう。ただ、決して自分が正義であると勘違いして暴走しないように。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
一刻も早いパンデミックの終息を祈り、できることをしていきましょう。
最後に、この記事には現在の状況下での登山を推奨する意図は一切ありませんのでご了承ください。
ディストピア小説の書き出しみたいだなって
皮肉っぽい掌編小説みたいなのを書きたかったんだけどなかなかうまくいかなかった…
※不謹慎なので不寛容な人は読まないでね
19世紀頃から発展を続けた第一次科学技術文明は21世紀初頭にわずか数ヶ月で全世界に蔓延した”COVID-19”と呼ばれる未知のウィルスによって事実上崩壊した。
その直接的な原因としてはまず厳然たる事実として、この治療法が存在しなかった未知のウィルスの感染力と長い潜伏期間が挙げられる。また、当時多く見られた批判として、結果論でしかないが各国(注:第一次科学技術文明の時代には地球上に200程度の国が存在していた)の感染拡大に関する対応の誤り(注:現在と異なり当時の各国政府の意思決定は状況判断の誤りが非常に多かった)も要因の一つであろう。また、外出制限などにより各種消費が落ち込んだことによる経済の急速な衰退も挙げられる。
さて、この文明崩壊時には我々が教訓とすべき現象がみられた。
それは重大な危機の前ですら人々が協調できなかったということである。
例えば、ワクチンがまだ無かった時期のCOVID-19の最も有効な対策手段として、人との接触を可能な限り減らすという方法があった。
しかし一部の人々はこの有効な対策手段を徹底するという政府の方針を無視し、自分勝手に不要な外出を繰り返し、その結果ウィルスはワクチンができるまで蔓延を続けることとなったのである。
これこそが第一次科学技術文明崩壊の最大の原因であるというのが、現在の定説である。
つまりこの過去の事実から我々が活かすべき教訓は、
まず第一に我々は共に歩み、強い絆を失わぬよう一致団結すべきであるということ。
そして第二に歩みを共にしない裏切り者を社会から断固として追放すべきであるということは明白である。
さあ同志諸君よ、共に歩み、互いのために働こう!
歩みを共にしない裏切り者はすぐに特別警察へ通報せよ!
この困難も我々であれば必ず打開できるはずだ!
我らが偉大なる指導者に魂を捧げよ!
暖冬の白い白山に登ってきた(2020年1月)
1月の3連休を使って白山へ登ってきました。
本文に入る前に、必要はないとは思いますが一応注意書きを。
厳冬期ではありますが今冬は記録的な暖冬で、金沢では積もるどころか雪が舞うこともほとんどなく、県内はおろかお隣の富山県のスキー場すらどこも開けない状況でした。
なのでこの記事だけを参考にこの時期の白山に挑戦しないようにお願いします。
目次
1日目 風嵐ゲート→別当出合→甚之助避難小屋
今回は部活のメンバーではなく別団体の3人と僕の4人での山行となりました。
事前に顔合わせはしてありましたが3人中2人はほぼ初対面だったので少し緊張しました。しかし最年長のSさんがとても気さくな方ですぐに打ち解けることができました。
早朝に風嵐の林道ゲートに到着。すでにゲート前にはスキーヤーのものと思われる自動車が何台も停車してありました。
僕たちがゲート前で準備している最中に一台車がやってきて3人組の男性が登山の準備を始めたのですが、彼らも僕たちと同様スキーヤーではないようでした。
彼らとは3日間の行動中ずっと抜きつ抜かれつでした。(ラッセルとルーファイ、本当にありがとうございました)
さて、暗い中ゲートを越えて長い長い林道(なんと16㎞!!)を歩き始めたわけですがとにかく雪が見当たりません。
数日前に大雨が降り、当時の金沢市街地の気温からするにこの辺りでも雨だったのでしょう。結局林道に雪がみられるようになったのは市ノ瀬の手前くらいからでした。
市ノ瀬から先も林道の上に雪が無い箇所も多く、先行のスキーヤーが苦労している様子がみられました。
それでも雪が少ないなりに別当出合に近づくにつれ積雪量はどんどん増えていき、別当出合ではおよそ1mほどの積雪がみられました。
問題の吊橋にはほとんど積雪がなく、代わりに鉄骨の一部が凍りついている状態でした。吊橋は荷物を背負っていれば鉄骨から落ちても引っかかりそうなくらいの隙間が空いているくらいなのですが、万が一があるので確保しつつ渡りました。
確保しているとはいえ怖いものは怖いし、めちゃくちゃ長いし、肩は凝るし、何よりこれを帰りも渡らなければならないという事実。
何とか渡り終え、次なる要注意スポットの急登に差し掛かります。
雪はうっすら表面をやや締まった雪が付いているだけで少し怖かったですが無事に通過しました。
その後中飯場の上まで夏道を辿り、へとへとになりながら歩いて甚之助避難小屋に無事到着。
この日は終始良い天気で楽しかったです。翌日は昼前から天候悪化との予報ですが果たして…
2日目 甚之助避難小屋→御前ヶ峰→甚之助避難小屋
昼前から荒天との予報のため日の出前から行動を開始することにし、朝食を準備していると甚之助避難小屋にBCスキーヤーの集団が入ってきました。後から知りましたがどうやら有名な某先生の一団だったようです。
僕らは空がうっすら明るくなったころに出発しました。
ここからは砂防新道から外れ、エコーラインの通っている尾根に取り付くのですが、初っ端から上手くルートをとれず苦戦しました。すぐあとから出発した3人組のおじさん達のとったルートは復路で辿らせてもらいましたがとても無駄がなく歩きやすく圧倒的な経験の差を感じました。
そのままエコーラインのあたりを歩き、尾根が細くなった辺りで日の出を拝めたのですがすぐにガスが出てきて視界不良に。
視界不良のまま真っ平らな弥陀ヶ原を越え五葉坂に着く必要があるのでもうコンパスだけが頼りです。
しかし幸いにも弥陀ヶ原を歩いている途中でガスが晴れたため、室堂まで問題なく歩くことができました。
室堂は完全に凍りついていましたがヤマレコなどの過去の記録と比べてみると積雪量は少ないように思います。
ここからはアイゼンで御前ヶ峰を目指します。
この辺りもルート取りが難しかったです。
雪面はカリッカリに凍り付いており、間違いなくスリップしたが最後絶対に止まらないやつだったのでずいぶん怖かったです。
怖い斜面を抜け、冷え切った強風が吹きつける御前ヶ峰に登頂するころには視界はなく、直前に登頂していた3人組のおじさん達と記念撮影をし合いっこした後ですぐ下山開始です。(寒いし景色見えないので…)
先ほど書いたように室堂までの斜面はカリカリに凍り付いており、視界不良。ここの下りが一番緊張する場面でした。
ルートを慎重に見極め、降りていきます。
夏道とは少しズレたやや尾根状になった地形を降りていくと、ガスのむこうに先行していた3人組のおじさん達が止まっているのが見え、すぐ先は傾斜が緩くなっていることがわかりました。
おじさん達はトラブルが発生したらしくここからは僕らが先行しました。
帰りの弥陀ヶ原も視界がありませんでしたがここでI君の見事なナビゲーションのおかがげでエコーラインの稜線への取り付きに立てておいたフラッグの目の前に出ることができました。
その後は何事もなく甚之助避難小屋に到着。何度かスリリングなシチュエーションを経たせいか割と疲れたのでこの日の行動はここで終了です。(途中まで降りてからテントを張るのは面倒だしね)
3日目 甚之助避難小屋→別当出合→風嵐ゲート
3人組のおじさん方にやや遅れて出発。しばらくは彼らのトレースに沿って進みました。甚之助避難小屋から中飯場までの尾根は広く、おまけに尾根上に細かい沢やコブが入り組んでおりルーファイは容易ではなかったため、助かりました。
おじさん方とは中飯場手前で交替し、吊橋手前の急登をおっかなびっくり下り、吊橋へ。
昨日からの降雪で若干雪が積もった吊橋を渡り、そこから延々と林道を歩きました。
足の裏がめっちゃ痛く、後半はかなり長く感じた林道歩きでした。(サラッと書きましたが本当にしんどかった…)
帰りは白峰総湯に寄って汗を流した後一旦解散後焼き肉で打ち上げ。
顔なじみと登山するのも楽しいですが、違う所属の人たちの中に混ざって登るのも新鮮でとても良い刺激になりました。
自分が今までで経験した冬山登山の中で最も過酷でリスキーな山行となった今回の登山、自分にとっての課題がたくさん見つかり良い経験となりました。
次にここに冬来るときは(いったいここを無事に登って降りてくるだけの技術を身につけるのにどれだけかかるかわかりませんが)たっぷり雪のある時にスキーで来たいです。(ていうか林道歩きキツ過ぎてスキーじゃなきゃもう嫌)
グレゴリー バルトロ65 レビュー
ブロガーみたいな記事を書いてみたくて、そこそこ需要がありそうなグレゴリーのバルトロ65(旧モデル)のレビューをすることにしました。
購入したのは2017年の初秋。モデルチェンジしたはずなので今は中古市場でしか手に入らないはず。某フリマアプリとか某ネットオークションで見かけて買うか悩んだら適当に参考にでもしてください。…やっぱ全然需要なさそうこの記事。
ただ、僕はどうしても伝えたいのです。
グレゴリーのバルトロは巷で圧倒的支持を受け凄まじい人気を誇っており、山で石を投げればバルトロユーザーに当たるとまで言われている(もちろん、バルトロユーザーに限らず人に石を投げてはいけません)わけですが、いくら大勢に支持されている神ザックだったとしても利用スタイルや体型に合わなければ使いにくいのだということを。
これ、普通に考えれば当たり前のことなんだけど最初のうちはやりがちな失敗な気がします。
さて、本題です。
回りくどい前置きの通り、バルトロは僕にとって使いにくいザックでした。
もちろんすべてが自分に合わなかったわけではないので、まずはざっと旧モデルのバルトロの構造と良いところをレビューしていきたいと思います。
目次
構造
上から順に
・天蓋
天蓋上側のポケットが2分割されているという変わった構造をしています。
・メイン収納
二気室構造ですが気室を分ける部分は完全に取り外し可能なのが個人的にグッド。
メイン気室は背面と底部分がガバっと開きます。
・ハイドレーションポケット兼アタックザック
小さいポケットとコードを通せるパーツ付きで、雨具と行動食、水が十分に入るサイズ感のアタックザックです。
・フロントポケット
ザック中央、縦向きに配置されたポケットです。中にはレインカバーが収納されています。
・背面&ウエストベルト&ショルダーハーネス
大きくカーブしたメッシュの背面です。このカーブの具合はパネルの裏に入っているパッドで微調整可能。
また背面はメッシュで本体と少し空間があります。冬山向きのザックではないのですがこの構造のおかげでピッケルを背中とザックの間にぶっ刺すやつ(伝われ)がめちゃくちゃやりやすい。
背面長は一段階調整可能。
ウエストベルトポケットは左右異なり片方は防水になっています。
・サイド
左右で構造が異なります。背負ったときの右側にはボトルホルダー、左側はメッシュのポケットになっています。
良かった点
この点に関しては様々な記事が出ているのであっさり終わらせます。
・ボトルホルダーが神
こいつはまじで使いやすい。背負いながらでもスッと手を後ろにやるとちょうどいいところにボトルホルダーがあります。角度もまた絶妙でストレスなくボトルが出し入れできます。
しかも使わないときは収納可能。底はメッシュなので水や細かい土埃などは溜まりません。
・天蓋のファスナー位置が良い
ファスナーがザック上面方向についているので、背面側水平方向についているもののようにファスナーを開けた時に荷物が落ちにくくなっています。これはとても快適。
・各種ショックコード、バックルの操作性が高い
悪かった点
期待が大きかった分良くなかった点はたくさんあります。もちろん僕にとっての意見なので参考までに。
・ウエストベルトの防水ポケットが小さい
昔のiPhoneかGPSデバイスしか入らない微妙なサイズ感。もちろん僕のスマホも入らないし、大きくなった最近のiPhoneも入らない。コンデジも入らないしかなり小さなメモ帳でもギリギリのサイズ感、せっかくの防水ポケットなのに一体何を入れれば良いんだこれ。
・天蓋が二分割されているせいで汎用性が低い
天蓋が二つに分かれていると小物が整理しやすいのは確かなのですが、別に100均で売っているようなメッシュポーチ使えば整理できるわけで。
分割されていることでちょっと長いものや大きいものが入らなくなるのがとても使いにくかった…
・背面パネルの形が背中と致命的に合わない
僕は身長174㎝、体重55㎏のやせ形で、バルトロは店頭で背負ってみてMサイズを選択しました。
店頭で背負ったときは10㎏の重りを入れて背負い、良さそうに感じたのですが、実際に15㎏とか20㎏とかで長時間背負って歩くと背面パネルの形状と背中がとにかく合わず、かなり肩に負担がかかりました。
色々と調整してみたのですが結局背中に合わせることができませんでした。Sサイズにしていたらまた違ったかもしれませんが…
ただ、とにかく背中に合わないにも関わらずそこそこ背負えてしまうのはさすがの荷重分散システムです。
・ザックカバーの位置が意味不明
なぜここにザックカバー収納してるのか理解に苦しむ。どうして…どうして??
フロントポケットの奥にザックカバーが収納されている。フロントポケットに荷物を入れていた場合その荷物を出さなければザックカバーを出し入れできないのです。
おとなしく底につけろ。
・フロントポケットが使いにくい
フロントポケットは大きいのですがその中央を縦にぶった切るようにファスナーが配置されているため、小物をたくさん入れてもファスナーが縦配置なので出し入れの際に落ちないか気を遣うし、大物を入れようとしてもファスナーが中央配置なので出し入れしにくいしポケットより一回り小さいものしか収納できないのです。
ここに問題なく収納できるのはテント内に敷く銀マットくらいでしょうか。
せめてファスナーが右か左に寄っていたらもう少し使用の幅が広がるのにな…
・カスタムがほとんどできない
ループがなぜかほとんどついていないためコードを付けてプチカスタムすることもできないのです。せめて天蓋外側にはループをつけて欲しかった。
総評
確かに良いザックです。
少なくともこのザックの前に使っていたモンベルのスーパーエクスペディションパック90(昔これを背負ってバスを待っていたら通りがかりの糞ババアご婦人に「汚ねぇズタ袋だな!!!!」と言われたことがあるのでたぶんザックじゃなくてズタ袋だと思います)と比べると圧倒的に使いやすいです。
ただ、間違いなく合わないひとも一定数存在します。僕の後輩も同モデルを使用していましたが僕と似たような評価をしていたので合わないのは恐らく僕だけではないでしょう。
結局バルトロは1年半使用した後引退してもらいました。(某フリマアプリにドナドナしました)
後継はマウンテンダックスのラトック。山では割と若い人がよく使っている印象の格安ザックです。がっつり背面長を調整できるのでバルトロより快適に背負えています。
まあ人気とか他の人の評価だけで買い物すると失敗しがち、ってことで今回はこの辺で
最後まで読んでくださってありがとうございました!